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建築知識2000.9月号特集原稿
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山熊田の主婦の山おこし
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建築知識2000.9月号特集原稿
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お金のかからない暑さ寒さ対策
山熊田の主婦の山おこし
11月10日、新潟県岩船郡山北町大字山熊田というスギを植林している山村を訪ねてきました。
大変感動しましたのでご報告いたします。
大変感動しましたのでご報告いたします。
山のどんじりの集落に元気が見えた──山熊田の主婦の山おこし──
日本の多くの山々がひん死の状態となっている今日、新潟県岩船郡山北町大字山熊田に山と人々とのささやかな 循環を見ることができた。
その循環は、今日に至るまで営々と続けられてきたが、昨年より、「5人の主婦」が立ち上がることにより、事 業という形をもって積極的に展開しはじめたのである。
いいかえれば、山の生業を原点とした事業が始められたと いえる。
新潟県は、農業国として日本の先頭にたって米つくりを中心に里づくりを進めてきた。
しかし日本の農業 政策が世界市場の中でさまざまな変遷をたどる中、県民はとまどいながらも生業としての米作りをかろうじて続けている。
「おいしい」米作りの歴史は、人々の生業の歴史でもある。
この十年の農業政策のなか、グリーンツーリ ズムなどヨーロッパの営農の姿に刺激され営農家だけでの農業ではなく、一般市民との交流あるいは多角的な経営として、商品化、直販、体験農業、飲食業、宿泊業などが生業そのものを商材とし新たな動きが各地で見られるようになってきた。
この山北町山熊田もそのひとつ。
平成12年6月23日集落全戸を対象に村おこし事業への提案が呼びかけられた。
その呼びかけに応えたのは5戸10人の村びと、おたがいに兄弟姉妹であったり親戚の間柄であった。
山熊田は22戸約70人という規模の集落。
昭和60年にはじまった「村おこし事業」に名乗りをあげ、古代織として伝わってきた「しな布」への取組があり、これが今回の事業につながる村での活動となっていた。
また、平成9年度 に商工会が実施したビデオづくり事業で一年間にわたって山里の生活を取材し続けたことも、村びとには良い刺激となっていた。
その間「何かやりたい」という主婦たちからの声がすでに商工会の職員の耳に届いてもいたのである。
山北町の山々を見ると、谷あいを走る道沿いには杉の造林が続き、林業がきめ細かく続けられていることが目に見える。
山の高いところは、雑木林が残され、紅葉も大変美しい。
話をお聞きしたところ、この地域には「林家」 がいて伐採と植林を続けているとのことだった。
はじめてこの山々を見つめ、何故この時代にこうして山々が生き生きとしているのだろうかと、驚きと感動を覚えないではいられなかった。
山おこし事業を進め始めた「さんぽく生業の里企業組合」は、平成12年6月23日の商工会からの「呼びかけ」 に応えた村びとによって平成12年7月6日に合意、10月21日に正式発足した。
5戸10人の村びとと9人の 支援者によって運営され、商工会を退職した国井千寿子氏が支配人として指導にあたっている。
この呼びかけの前 に二年ほど、商工会による基本調査があってのことであったが、「呼びかけ」に応えた村びとは10人。
一人50万円ずつを出資し、合計500万円。
さらに「金だけだして、口出すな」という条件にもかかわらず750万円が 商工会会長・副会長をはじめとする有志から集められた。
この資本金12,500,000円を原資に、補助金14,576,000円 を加え、まずはじめにつくったのは拠点としての「作業場」であり、「飲食店」であり、事務所としての「やかた」 であった。
こうした動きが竹を割ったようにはじき出たのは、村の中にある一軒の空き家が、維持管理できなくなり売りに 出たことからであった。
雪国での建物の維持管理は本当に大変だと伺った。
平成12年12月7日、集落全戸への 説明会からなんと半年間での出来事が、山おこし事業の拠点完成へと導かれていった。
組合を結成すること、県や町の補助金を受けること、そして拠点となる建物をつくること、この3つの課題を半年間でやりとげてしまったのである。
■山のくらしに価値を見出す
山の産物は、そのままでは食べられなかったり、利用しにくかったりするものが多い。
食材の多くは、にが味や渋味がある。
そんな時に役立つのが雑木の灰汁である。
この灰汁を活用することにより、にが味や渋味がとれ、美味しい食材が豊富に利用できるようになるのである。
和紙の制作工程でもじんぴ繊維を利用するために、灰汁入りの釜ゆでが役立っている。
山熊田は、日本唯一の「しな布」の伝統が残る地域にある。
このしな布もシナノキの中皮(甘皮)を灰汁で煮ることにより織物に使うことのできる繊維にすることが可能となるのである。
山の生活文化を「灰汁の文化」と言い表す方もおられるほどに山の生活と灰汁とは切っても切れないものとなっている。
・アク笹巻き
雑木の灰汁に餅米を浸し、それを笹で巻き、約2時間ゆでる。
その作業によって、独自の風味と歯ざわりが誕生する。
また灰汁がアルカリ性であるために雑菌が抑えられ、普通のチマキよりも保存が効くようになる。
山の生活の大切な保存食となる。
・トチ餅
栃の実は古代から食用とされてきた。
この栃の実もアクが強いため、そのままでは食に適さない。
ここでは灰汁の力が発揮され、灰汁に浸された栃の実は、カラの繊維が柔らかくなり、水溶性のアクが容易に外に溶けだしていくのである。
こうして加工された栃の実を餅米といっしょにして臼でつくと、香ばしいトチ餅がようやくできあがるのである。
・しな布
しな布は木品布とも書かれるが、フジの皮やコウゾ、アサなどの繊維で織った藤布、楮布、麻布などとともに日本の古代織物(原始織物)の一つとして、古代より伝承されてきたものである。
シナの語源はアイヌ語の「結ぶ・しばる」などの意味を持ち、アイヌ文化圏に属する北方系の織物といわれている。
この山北町は日本の北限であった古代を考えると納得できるように思える。
近くには「日本国」という名称の山まである。
シナノキの樹皮繊維は灰汁で2・3日煮沸することにより、はじめて織り糸にすることが可能となる。
しな布にするためには8~10年生のシナノキが利用されている。
現在もなを、シナノキを利用するとともに、焼き畑に植林を続けているのが山熊田の特徴である。
・焼畑農法
山熊田周辺の山では杉が植林されているが、この杉の伐採地を利用して、焼畑農業が今も盛んに行われている。
焼畑では、雑菌、雑虫が死滅し、さらに灰に含まれるカリウム等の栄養分により農薬や化学肥料の必要がなくなり、純粋な自然農法が可能となる。
山熊田ではとくに赤かぶ(温海カブ)を奨励、「赤かぶ漬け」を商品化している。
形のととのったものは農協を通じて販路に載るのであるが、大きいものや小さいものなどつぶのそろわないものは、「さんぽく生業の里企業組合」が買い取り、商品化しているのである。
■ 大切なのは、山の生活を自ら価値づける勇気と時代と人生への挑戦
「この組合の運営がうまくいかなければ後継者は育たない。うまくいけば心配はいらない。」そんな国井さんの言葉が印象的に残る。
「3年で10万稼げるようになろう」お互いにそう励まし合いながら、毎日客が帰ると反省会が始まる。
接客が恥ずかしがり屋でダメ。
でもそのままではいられない。
みんなで努力しつづける。
しかしここまでは、日本全国の林業地と同じこと。このままではうまくいくはずがない。
1日客の来ないことも少なくない。
余り山奥なので、途中で不安になって引き返してしまう客もいる。
携帯電話も通じず、途中に公衆電話があるわけでもない。
しかし、この「さんぽく生業の里企業組合」には、客が来なくても事業を支える「産業」がある。
それが「しな布」なのである。
これはまさに山の宝である。
山と山に暮らす人々との「果実」なのである。組合の活動はまだ始まったばかり、これからの展開に期待したい。
■人を励ますエネルギー源はまちと山の交流
新潟県の最北部に位置する岩船地域の愛称が「都岐沙羅(つきさら)」。
この岩船地域は7つの市町村で構成されているが、北越後ならではの自然や歴史、文化がぎっしり詰まっている地域である。
この「都岐沙羅 (つきさら)」。あまり聞き慣れない言葉なので、簡単に説明すると 「都岐沙羅」 は日本書紀に出てくる言葉であり「大日本地名辞典」では、淳足柵 (ぬたりのさく)・磐舟柵(いわふねのさく)・出羽柵 (ではのさく)がいずれも日本海沿岸に位置することから 「都岐沙羅」 もこの一線上にあったと推定し、磐舟柵の別名であった可能性が述べられている。
この文字から受ける美しい印象と新鮮な響き、そしてこの圏域のルーツを表す言葉として 「都岐沙羅」 が、この圏域のイメージを高めてくれるものとして命名されたという次第。
この広域圏を一つのまちと捉え直し、地域住民の手でこの地域をもっともっと元気にしよう、と5年 前から始められたのが「岩船地域ニューにいがた里創(りそう)プラン」。
この事業を一言で言うと、「地域を豊かにする住民主体のビジネスを盛んにして、みんなで地域経営を行っていこう」という発想といえる。
そしてこのネットワークが、地域の活動や起業を元気づけているのである。
この山北町山熊田の活動も、津岐沙羅パートナーズセンターが運営する「元気づくり支援事業」による助成を受 けている。
今回の筆者の訪問も、この元気づくり事業の一環として、アドバイサー支援の目的で行われた。
アドバイスするよりも元気をもらって帰ってきたと言った方が正確かも知れないが。
さて、こうして一つの小さな起業の思いが、大きな人の輪のなかで成長し続けている様子が実感できたことは、まちづくり、村おこし、山おこしの原点は、「共感・共生・共同」であるとますます確信へとつながったのである。
日本の多くの山々がひん死の状態となっている今日、新潟県岩船郡山北町大字山熊田に山と人々とのささやかな 循環を見ることができた。
その循環は、今日に至るまで営々と続けられてきたが、昨年より、「5人の主婦」が立ち上がることにより、事 業という形をもって積極的に展開しはじめたのである。
いいかえれば、山の生業を原点とした事業が始められたと いえる。
新潟県は、農業国として日本の先頭にたって米つくりを中心に里づくりを進めてきた。
しかし日本の農業 政策が世界市場の中でさまざまな変遷をたどる中、県民はとまどいながらも生業としての米作りをかろうじて続けている。
「おいしい」米作りの歴史は、人々の生業の歴史でもある。
この十年の農業政策のなか、グリーンツーリ ズムなどヨーロッパの営農の姿に刺激され営農家だけでの農業ではなく、一般市民との交流あるいは多角的な経営として、商品化、直販、体験農業、飲食業、宿泊業などが生業そのものを商材とし新たな動きが各地で見られるようになってきた。
この山北町山熊田もそのひとつ。
平成12年6月23日集落全戸を対象に村おこし事業への提案が呼びかけられた。
その呼びかけに応えたのは5戸10人の村びと、おたがいに兄弟姉妹であったり親戚の間柄であった。
山熊田は22戸約70人という規模の集落。
昭和60年にはじまった「村おこし事業」に名乗りをあげ、古代織として伝わってきた「しな布」への取組があり、これが今回の事業につながる村での活動となっていた。
また、平成9年度 に商工会が実施したビデオづくり事業で一年間にわたって山里の生活を取材し続けたことも、村びとには良い刺激となっていた。
その間「何かやりたい」という主婦たちからの声がすでに商工会の職員の耳に届いてもいたのである。
山北町の山々を見ると、谷あいを走る道沿いには杉の造林が続き、林業がきめ細かく続けられていることが目に見える。
山の高いところは、雑木林が残され、紅葉も大変美しい。
話をお聞きしたところ、この地域には「林家」 がいて伐採と植林を続けているとのことだった。
はじめてこの山々を見つめ、何故この時代にこうして山々が生き生きとしているのだろうかと、驚きと感動を覚えないではいられなかった。
山おこし事業を進め始めた「さんぽく生業の里企業組合」は、平成12年6月23日の商工会からの「呼びかけ」 に応えた村びとによって平成12年7月6日に合意、10月21日に正式発足した。
5戸10人の村びとと9人の 支援者によって運営され、商工会を退職した国井千寿子氏が支配人として指導にあたっている。
この呼びかけの前 に二年ほど、商工会による基本調査があってのことであったが、「呼びかけ」に応えた村びとは10人。
一人50万円ずつを出資し、合計500万円。
さらに「金だけだして、口出すな」という条件にもかかわらず750万円が 商工会会長・副会長をはじめとする有志から集められた。
この資本金12,500,000円を原資に、補助金14,576,000円 を加え、まずはじめにつくったのは拠点としての「作業場」であり、「飲食店」であり、事務所としての「やかた」 であった。
こうした動きが竹を割ったようにはじき出たのは、村の中にある一軒の空き家が、維持管理できなくなり売りに 出たことからであった。
雪国での建物の維持管理は本当に大変だと伺った。
平成12年12月7日、集落全戸への 説明会からなんと半年間での出来事が、山おこし事業の拠点完成へと導かれていった。
組合を結成すること、県や町の補助金を受けること、そして拠点となる建物をつくること、この3つの課題を半年間でやりとげてしまったのである。
■山のくらしに価値を見出す
山の産物は、そのままでは食べられなかったり、利用しにくかったりするものが多い。
食材の多くは、にが味や渋味がある。
そんな時に役立つのが雑木の灰汁である。
この灰汁を活用することにより、にが味や渋味がとれ、美味しい食材が豊富に利用できるようになるのである。
和紙の制作工程でもじんぴ繊維を利用するために、灰汁入りの釜ゆでが役立っている。
山熊田は、日本唯一の「しな布」の伝統が残る地域にある。
このしな布もシナノキの中皮(甘皮)を灰汁で煮ることにより織物に使うことのできる繊維にすることが可能となるのである。
山の生活文化を「灰汁の文化」と言い表す方もおられるほどに山の生活と灰汁とは切っても切れないものとなっている。
・アク笹巻き
雑木の灰汁に餅米を浸し、それを笹で巻き、約2時間ゆでる。
その作業によって、独自の風味と歯ざわりが誕生する。
また灰汁がアルカリ性であるために雑菌が抑えられ、普通のチマキよりも保存が効くようになる。
山の生活の大切な保存食となる。
・トチ餅
栃の実は古代から食用とされてきた。
この栃の実もアクが強いため、そのままでは食に適さない。
ここでは灰汁の力が発揮され、灰汁に浸された栃の実は、カラの繊維が柔らかくなり、水溶性のアクが容易に外に溶けだしていくのである。
こうして加工された栃の実を餅米といっしょにして臼でつくと、香ばしいトチ餅がようやくできあがるのである。
・しな布
しな布は木品布とも書かれるが、フジの皮やコウゾ、アサなどの繊維で織った藤布、楮布、麻布などとともに日本の古代織物(原始織物)の一つとして、古代より伝承されてきたものである。
シナの語源はアイヌ語の「結ぶ・しばる」などの意味を持ち、アイヌ文化圏に属する北方系の織物といわれている。
この山北町は日本の北限であった古代を考えると納得できるように思える。
近くには「日本国」という名称の山まである。
シナノキの樹皮繊維は灰汁で2・3日煮沸することにより、はじめて織り糸にすることが可能となる。
しな布にするためには8~10年生のシナノキが利用されている。
現在もなを、シナノキを利用するとともに、焼き畑に植林を続けているのが山熊田の特徴である。
・焼畑農法
山熊田周辺の山では杉が植林されているが、この杉の伐採地を利用して、焼畑農業が今も盛んに行われている。
焼畑では、雑菌、雑虫が死滅し、さらに灰に含まれるカリウム等の栄養分により農薬や化学肥料の必要がなくなり、純粋な自然農法が可能となる。
山熊田ではとくに赤かぶ(温海カブ)を奨励、「赤かぶ漬け」を商品化している。
形のととのったものは農協を通じて販路に載るのであるが、大きいものや小さいものなどつぶのそろわないものは、「さんぽく生業の里企業組合」が買い取り、商品化しているのである。
■ 大切なのは、山の生活を自ら価値づける勇気と時代と人生への挑戦
「この組合の運営がうまくいかなければ後継者は育たない。うまくいけば心配はいらない。」そんな国井さんの言葉が印象的に残る。
「3年で10万稼げるようになろう」お互いにそう励まし合いながら、毎日客が帰ると反省会が始まる。
接客が恥ずかしがり屋でダメ。
でもそのままではいられない。
みんなで努力しつづける。
しかしここまでは、日本全国の林業地と同じこと。このままではうまくいくはずがない。
1日客の来ないことも少なくない。
余り山奥なので、途中で不安になって引き返してしまう客もいる。
携帯電話も通じず、途中に公衆電話があるわけでもない。
しかし、この「さんぽく生業の里企業組合」には、客が来なくても事業を支える「産業」がある。
それが「しな布」なのである。
これはまさに山の宝である。
山と山に暮らす人々との「果実」なのである。組合の活動はまだ始まったばかり、これからの展開に期待したい。
■人を励ますエネルギー源はまちと山の交流
新潟県の最北部に位置する岩船地域の愛称が「都岐沙羅(つきさら)」。
この岩船地域は7つの市町村で構成されているが、北越後ならではの自然や歴史、文化がぎっしり詰まっている地域である。
この「都岐沙羅 (つきさら)」。あまり聞き慣れない言葉なので、簡単に説明すると 「都岐沙羅」 は日本書紀に出てくる言葉であり「大日本地名辞典」では、淳足柵 (ぬたりのさく)・磐舟柵(いわふねのさく)・出羽柵 (ではのさく)がいずれも日本海沿岸に位置することから 「都岐沙羅」 もこの一線上にあったと推定し、磐舟柵の別名であった可能性が述べられている。
この文字から受ける美しい印象と新鮮な響き、そしてこの圏域のルーツを表す言葉として 「都岐沙羅」 が、この圏域のイメージを高めてくれるものとして命名されたという次第。
この広域圏を一つのまちと捉え直し、地域住民の手でこの地域をもっともっと元気にしよう、と5年 前から始められたのが「岩船地域ニューにいがた里創(りそう)プラン」。
この事業を一言で言うと、「地域を豊かにする住民主体のビジネスを盛んにして、みんなで地域経営を行っていこう」という発想といえる。
そしてこのネットワークが、地域の活動や起業を元気づけているのである。
この山北町山熊田の活動も、津岐沙羅パートナーズセンターが運営する「元気づくり支援事業」による助成を受 けている。
今回の筆者の訪問も、この元気づくり事業の一環として、アドバイサー支援の目的で行われた。
アドバイスするよりも元気をもらって帰ってきたと言った方が正確かも知れないが。
さて、こうして一つの小さな起業の思いが、大きな人の輪のなかで成長し続けている様子が実感できたことは、まちづくり、村おこし、山おこしの原点は、「共感・共生・共同」であるとますます確信へとつながったのである。